松本重太郎(京丹後市丹後町間人生まれ)

2011.05.10

「関東の渋沢、関西の松本」といわれた明治財界の実業家。松本重太郎は、弘化元年、間人村の松岡亀右衛門の三男亀蔵として生まれました。十歳で郷里を離れ、呉服屋に奉公に上がりながら、勉学に励みました。二十三歳の時に名前を松本重太郎と改め、独立して反物商「丹重」を開きます。以後着実に商売を広げ、大阪紡績(東洋紡)、大阪麦酒会社(アサヒビール)、大阪毎日新聞社、山陽・南海などの鉄道会社、百三十銀行などの創立に尽力、また、これらの会社の社長・重役を務めました。明治財界の重鎮として活躍するとともに、地元間人小学校の建設費用を寄付するなど、郷里の発展にも貢献しました。六十九歳で没後、南海電鉄の難波駅に銅像が建立されています。智源寺は宮津城下大久保山の麓に東を向いて建っています。寛永二年(一六二五)宮津藩王星極高広が、母の菩提を弔うために心庵盛悦を請じて朱光庵を改めて智源寺としたと伝えます。本堂屋根や智源寺長押の釘隠しには京極家の家紋の「平四目結」「桐」が付けられています。文化元年再建の本堂の天井に描かれた草花図は、円山派・四条派など当時の京都画壇の実力者二十名の画家による競作となっています。境内人口にある子安地蔵は、鱒留(京丹後市)の石工松助(二代)の作です。山盛林寺は、寺伝などによると天正五年の創建で、開山は趙室宗栢、大久保山の麓にあり、小倉播磨守の菩提寺だったとされます。慶長八年(一六〇三)現在地近くの寺谷に移り、貞享二年(一六八百)に現在地へ移ったと伝わります。小倉播磨守や一色氏の位牌、細川藤孝の子で早世した即安梅心童子の肖像画などさまざまな遺品を残すほか、裏の墓地には明智光秀首塚と宝灰印塔があり、天正十年六月の「本能寺の変」の後、光秀が殺されると、その首が宮津へ送られてきて、首塚が築かれたと伝わっています。
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坂本屋瑠璃亭公式サイト